怒りと向き合う


最近わたしは怒っている。


「甘えてんじゃねーよ!」
「人のせいにばっかりしやがって!」
「言いたいことがあるんならはっきり言いやがれ!」


…てな感じである。
そういう感じの自分とちょっと冷静に向き合ってみる。


人に振り回されてるなあ。
でもそれもわたしがそうしたくてそうしてるんだな。
その人たちが自分で決めてやってるんだったら、それでいいやん。


…いやいや「自分で決めてます」って言いながら
そのくせイライラした感情ぶつけてくるよね。
「やっぱりうまくいかなかった」って、人のせいにしてるよね。


もういいかげん自分の選択に責任持ったら?
わたしはもうあなたに関わらないから。
でも「関わらないわけにいかない」ってことを
あなたはよく分かってるんだよね。


そして気付くのだ。
わたしが猛烈に怒っている相手は、わたし自身の姿だと。

安全保障関連法案に反対します


そして安倍政権の存続を拒否します。
ただ、批判だけではこれまでの繰返しになってしまう。
軍事に依存しない政治・経済構造の模索を。
オルタナティブな政策の実現を
粘り強く追求する政治家の方たちを応援したい。


平和な世界なんて理想に過ぎないといわれようと
理想を持ち続けることで、前に進めるのだと思います。
そしてどうすれば実現できるのか
わたしにもできることがあるはずだ。

http://m.huffpost.com/jp/entry/7806570

わたしたちおとなは


これだけは言っとかなくちゃ。


自らの意志で行動を起こせることは
やっぱりすばらしい。


わたしたちおとなは(こーゆー年になっちゃった)
無責任に批判だけしないこと。
主体的に生きようとする若者たちを応援し
おとなだからこそできる役割を
わたしたち自身が果たそうとすること。

オトンの遺言vol.2


「オトンの遺言」という記事を数年前に書いたが
あれをシリーズ化しようと思いながら、結局できずじまいで今日に至る。
まあいつものわたしの三日(一日)坊主。


オトンの行動範囲は非常に限定された空間(ほとんど家の中)だったが
まるでそんな風に感じられない、思考と思想の豊かな人だった。
安倍さんがかつて首相を任期途中で辞めたときの記事なんか
サイコーだったんだけど。あの原稿、今も残ってるかしら?


反安保法案で日本にも「デモ」がまだ起こせるんだと実感した。
その一方でSEALDs批判とかもすごい。
8.6の広島に通い続けた学生時代を過ごしたわたしは
一貫して反戦・平和への希望を持ち続けている。
安保法案にも反対、なのだが。
なんだろうか、この違和感。


デモや反対運動を積極的に支持するスタンスであるはずの
自分が感じている「違和感」の正体は、一体何なのだろうか?
ふとした時に考え続けている。


手がかりは「相手の価値観」なのかもしれない。
自分の正論を主張し続けた結果、結局相手との溝が深まるばかりで
失望を繰り返してきた経験が、この違和感を生んでいるのかもしれない。


本当に平和に近付きたいなら、わたしはどうすべきなのだろうか?
例によって、オトンに意見を聞いてみたい気がする。